コクピットをそのまま飛ばすモジュール式脱出装置は射出時に乗員が外気にさらされないため超音速時でも安全に脱出することができ、着水した場合も水と直接触れないため低体温症から乗員を守ることができた。またサバイバルキットや食料を通常より多く搭載することもできたりと利点は多かった。
しかし座席のみを飛ばす場合に比べ全体の質量が大きいため落下速度を通常の射出座席と同レベルにするには通常より大型のパラシュートを使うなどする必要があった。またパイロットの装備が改められる等の規程変更の度に改修を要したり、定期点検の度に分解整備が義務付けられ労力とコストを要したりなどデメリットも多かった。
一応、軽くて強いケブラー素材のパラシュートとエアバッグを装備し着地の衝撃をなるべく和らげるようにされていたが、それでも通常より着地の衝撃は大きく乗員が背骨の圧迫骨折を起こす事態などが発生している。
地形追従レーダー
地形追従レーダー(TFR:Terrain Following Radar)は低空を地形に沿って飛行する際使用されるレーダーである。このレーダーは、通常の火器管制用レーダーとは別に装備されており、自動操縦装置との組み合わせにより、F-111は自動で地形に沿って飛行することができる。飛行高度や地形追従精度は必要に応じて数種類から選択することが可能である。
トーチング(ダンプ&バーン)
トーチングを行うF-111CF-111の良く知られた曲技に、燃料を空中投棄しながらアフターバーナーを使って燃料を引火させるトーチング(ダンプ&バーンともいわれる)がある。この曲技は、F-111の展示飛行では頻繁に行われ、シドニーオリンピック閉会式の際にも実演された。
ただ、この技はF-111の問題点を現すものでもある。曲芸などで意図的に燃料を放出し引火させる分には特別な改造なしに行える便利な技といえるが、非常時燃料投棄をしている最中に引火すると危険であるため、燃料投棄時のエンジン出力には制限を課す必要があった。
愛称
愛称は「アードバーク(Aardvark:ツチブタの意)」だが、アメリカ空軍では退役直前まで公式な愛称を持たなかった。そのことから「フライングピッグ(Frying-Pig)」計画の推進者であるマクナマラ国防長官のフォード時代の「マーケッティング史上に残る大失敗」であるフォード・エドセルにちなんだ「フライング・エドセル(Flying Edsel)」、翼を前後させる可変翼の動作から「スウィンガー(Swinger)」、同様に可変翼を折りたたみナイフに見立てた「スウィッチブレイド(SwitchBlade)」、また配備当初に可変翼キャリースルーボックスの強度不足に起因する事故が連続して起きたことから「ウイドウメーカーWidow-Maker)」など、多彩な愛称を関係者から与えられていた。
ベトナム戦争
1968年3月、アメリカ空軍は議会などのF-111に対する批判を一掃するためF-111A 6機をベトナム戦争へ参加させることを決定する。しかしF-111Aは半月で2機の損失を出した。損失分を補充するため2機を新たに派遣するも、4月にもさらに1機損失が発生したことにより、作戦は一旦中断され、事故の原因究明が行われた。
後に改修が行われたF-111A 48機が1972年の北爆再開時に再びベトナムに派遣されたが、その際は4000回を越える出撃を行うも、損失は7機[6]と非常に高い運用成績を示した。
エルドラド・キャニオン作戦(リビア爆撃)
イギリス空軍レイクンヒース基地にてGBU-10爆弾を搭載する第48戦術戦闘航空団のF-111F
1986年4月14日撮影1986年4月、アメリカはリビアが支援したとされるテロに対する報復攻撃としてトリポリとベンガジの軍事施設に対する攻撃を計画する。この攻撃の目標にはムアンマル・アル=カッザーフィー大佐が宿舎として使用していたアル・アジジャ兵舎が含まれており、実質的にカダフィ大佐の殺害計画でもあった。アル・アジジャ兵舎の近くにはフランス大使館があったため精密な爆撃が要求されたが、当時のアメリカ海軍艦載機には精密誘導兵器の運用能力がなかったため、F-111に白羽の矢が立った。
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当初計画ではフランス領空を通過する予定であったが、フランスに拒否されたため、イギリスから発進してイベリア半島を大きく迂回するジブラルタル海峡まわりのルートに変更、往復10,000km近くの長距離飛行となった。攻撃はイギリスに駐留していた第48戦術戦闘航空団のF-111F 18機(他に予備が6機)と空母艦載機で行い、第42電子戦飛行隊のEF-111A 4機(他に空中待機が7機)がレーダーを妨害し支援することとされた。
4月14日、イギリスのレイクンヒース基地からF-111Fが、アッパーヘイフォード基地からEF-111Aが飛び立ち、途中空中給油を受けながらリビアに向かった。攻撃隊はリビア周辺で艦載機と合流し、EF-111Aの支援を受けながら攻撃を行った。結果、F-111F 1機とその乗員2名を対空火器により失ったが作戦は成功し、アル・アジジャ兵舎を含めた軍事施設を破壊することに成功した。しかし、最重要目標であったカダフィ大佐は宿舎にいなかったため、殺害には失敗した[7]。
フランス大使館への被害を避ける為に長駆F-111を飛行させて投入した作戦であったが、結局フランス大使館には至近弾による被害が生じ、作戦後にアメリカ政府は正式な抗議を受けることになった。
湾岸戦争
1990年「砂漠の盾作戦」のため、サウジアラビアの基地で出撃準備をするEF-111A1991年の湾岸戦争にはF-111E/FとEF-111Aが参加した。この戦争はレーダーに見えないステルス攻撃機としてF-117が特に有名となったが、実際のところレーザー誘導爆弾の6割はF-111から投下されていた(F-117は3割弱)。
開戦当初F-111Fはサウジアラビア南西部に位置するタイフ基地から展開し、往復1回ずつの空中給油を受け、目標周辺ではレーダーに捕捉されないように高度を下げ低空を飛行しながら攻撃を行っていた。しかし対空砲火が予想以上に強力で、低空を飛ぶ方がむしろ危険と判断され、高空を飛行したまま爆弾を投下するように計画が変更された。その結果、燃料消費量が減少し、帰投時の空中給油は必要なくなった。この行動パターンの変更は空中給油機の運用サイドに伝わっておらず、空中給油を行うものとして燃料を積載して離陸したものの、会合点にF-111Fが現れず、燃料を空中投棄して帰還するという事態が発生している。
このようにレーザー誘導爆弾を使ったミッションを多数こなしていたのと、数少ない地形追従飛行が出来る機体であったため[8]、「破壊したい物がある?F-111に任せろ。」や「F-16やF/A-18を飛ばすな。砂埃が舞ってF-111の邪魔になる。」などと呼ばれるぐらい信頼されていた。
2月27日には通常兵器としては最高の地表貫通性能を誇るGBU-28、通称「ディープスロート」を装備したF-111F 2機がイラク軍のアル・タジ基地地下司令部を破壊した。この時使用されたGBU-28は、約20日間という短い期間で開発されたため、アメリカ陸軍で使用していた8インチ自走榴弾砲の砲身に炸薬を詰めるという異例な製造方法がとられた。
また変わった戦果としては、イラク軍のミラージュF1戦闘機に発見されたEF-111Aが、地形追尾モードで超低空飛行に入り回避を試みたところ、それを追ったミラージュが地面に激突するといったものもあった。これはマニューバーキルといわれる撃墜方法でEF-111Aによる「撃墜」として公式にカウントされている。
湾岸戦争での活躍により、F-111の引退を先延ばしにするべきとの意見も出たが、前述の維持費などの問題から実際に行われることはなかった。
デリバリット・フォース作戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ空爆)
イタリアのアビアノ空軍基地に展開した第429電子戦飛行隊所属のEF-111A。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内のセルビア人勢力は、包囲下におかれた同国の首都サラエヴォを狙って迫撃砲弾を発射した。砲弾はサラエヴォ市内の市場に落下し多数の死者が出た(第二次マルカレ虐殺)。この地域は国際連合によって決められたボスニアの安全地域(非戦闘地域)に含まれており、この事件には世界各国から広く抗議の声が上がった。この声に応えて、国際連合保護軍の司令官やNATO南部司令官は、アメリカ海軍の原子力空母セオドア・ルーズベルトをアドリア海に派遣し、連合国軍機も攻撃態勢を整えた。
NATO軍は、セルビアのボスニアへの攻撃活動を阻止すべく、セルビア軍に空爆加える「デリバリット・フォース作戦」を練った。この空爆を支援するため、EF-111Aが他の軍用機と共にイタリアを中心とする基地に派遣され、防空制圧作戦を行った。なお、この作戦は、実際には「デッド・アイ作戦」と呼ばれる別作戦として扱われる事もある。1995年8月30日に作戦が開始され、9月14日(9月2日から4日は一時停止)に停戦した。その後10月にセルビア軍が停戦条件を破ったため、NATO軍は小規模な攻撃を続けた。
運用
F-111の基本性能は高く、戦術航空軍団(TAC)だけにはとどまらず、戦略航空軍団(SAC)では戦略爆撃機として採用された。電子戦機型のEF-111Aも開発されるなど、いくつかの派生型も作られた。機体の塗装について、初期は灰色を基調としたアメリカ空軍色だったが、ベトナム戦争以降は迷彩塗装(いわゆる「ベトナム迷彩」)が基本となり、後年にはグレー単色となる機体が多くあった。また、一部のF-111AがNASAに引き渡され実験機として使用されたことがあった。
アメリカ空軍では一時2010年ごろまでF-111を使用する予定であった。しかしながら、維持費がかさむため、通常攻撃型はF-15Eなどにその任務を譲り、1996年に第27戦術戦闘航空団のF-111FがF-16C/Dと交代したことにより退役完了した。EF-111Aは1998年に後継機を待たずしてアメリカ空軍から退役した。 2008年現在、F-111を運用しているのはオーストラリア空軍のみである。