2009年06月25日

ソビエト連邦は

ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできずに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜としてシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は、流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)、満洲から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされるなど、多大な被害を受けた。

このような事態にいたってもなお日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日、同宣言受諾の意思を通告し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。

翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
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日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し8月18日、退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への逃命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリスやアメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[24]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。

2009年06月10日

憲法の目的と手段(個人の尊厳)

日本国憲法は、「個人の尊厳」の原理(13条)の達成を目的とする とするのが憲法学の通説ないし定説である。これは、人間社会のあらゆる価値の根元が個人にあり、他の何にもまさって個人を尊重しようとする原理 である。「個人の尊厳」の意味については、具体的に明言されることは少ないが、およそ個々の人間の幸福という意味に理解されている。

個人の尊厳の原理の具体化手段としては、
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

基本的人権尊重主義
自由主義
福祉主義
平等主義
平和主義
権力分立制
民主主義(国民主権主義)
法の支配
を挙げるのが通説ないし定説といえる。

基本的人権尊重主義は、自由主義と平等主義とから成るが、自由主義を修正するものとして福祉主義も含んでいる。

個人一人一人が、人間として最大限の尊重を受けるからこそ、その基本的人権(自由)は尊重されねばならず、また、そのためには個人一人一人の考えを政治に反映させねばならないことから、民主主義(国民主権)が求められる。そして、個人が尊重される前提として平和な国家・社会が作られねばならないことから、平和主義(戦争の放棄)が採られる。

近代憲法と日本国憲法の関係
近代憲法とは、近代立憲主義の精神(憲法に基づいて政治を行おうとする考え)に基づいて制定された憲法である。(権力者による権力濫用を阻止し、名宛人の利益保護を目的とする) そして、近代立憲主義の3原則としては、国民主権・人権保障・権力分立を挙げる説が有力である。日本国憲法は、近代立憲主義の原則を含んでいるといえる。

2009年06月06日

瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺

瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。

平安時代、猿投地区(現豊田市猿投)には猿投窯と呼ばれる一大窯業生産地があった。そこで生産される灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
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鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが創始といわれる。(ただし、景正の実在を疑う説もある。)この頃、日本陶器の起源となる、灰釉・鉄釉などの本格的陶器生産が始まる。器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
室町時代末頃までは古瀬戸とよばれる。室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
元和2年(1616年)に徳川家康が死去して駿府城内にあった遺品は将軍家と御三家に分配されるが、そのうち尾張徳川家が受け取った分の目録『駿府御分物之内色々御道具帳』(徳川黎明会蔵)には、すでに「瀬戸」と「古瀬戸」の語の使い分けが見える。こんにちでいう「古瀬戸」とは指し示す範囲が異なるものの小堀遠州『茶人の次第』(水戸徳川家伝来)にも「古瀬戸」の語がみえ、近世初期には「瀬戸」と「古瀬戸」の使い分けが広がっていることが確認できる。[1]
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
文化年間(1804年 - 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。

2009年04月23日

舒明・皇極朝

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにした。

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孝徳朝
645年(皇極4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

新たに即位した孝徳天皇は次々と改革を進めていった(大化の改新)。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月には改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。

天智朝
孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれている。

668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。

天武・持統朝
天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こった。672年(弘文元年)壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に天武は没する。8年後の689年(持統3年)には諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

694年(持統8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。

持統天皇は子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。

中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制がとられ、地方行政組織は、国・郡・里制がとられるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に平城京へ遷都した。

2009年04月19日

イギリス産業革命

イギリスでは大航海時代以来の大西洋三角貿易によって国内の資本蓄積が進み、第2次囲い込みによって農村から流入した労働力と「プロト工業化」と称される農村の工業化によって、その産業構造は産業革命の進展を支えるほどに醸成されていた。本来的工業化に先立つ16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ各地における各種織物を中心とした手工業生産の展開のこと。農村家内工業と都市商業資本とが共生し、地域外ないし海外市場向けの生産がなされ、商業的農業地域の発展とのパラレルな関係、あるいは独自の人口動態などを特徴とする。日本にも「プロト工業化」に相似する現象はあるものの人口動態の面ではフランドル地方とは異なる様相を呈することが指摘されている。

毛織物工業などによる資本の蓄積が大西洋三角貿易によって加速すると、マニュファクチュア的工業生産にも技術革新が要求された。ダービー父子のコークス製鉄法やジェームズ・ワットによる蒸気機関の改良などがそれである。また、1764年のハーグリーブスのジェニー紡績機、1769年のリチャード・アークライトの水力紡績機、1779年のクロンプトンのミュール紡績機など、相次いで紡織機の改良がなされた。ミュールとはラバ(馬とロバの雑種)のことで、ジェニー紡績機と水力紡績機の両方の長所を取り入れたという意味である。これらは、おもにインド産の綿花を原料としていたが、ミュール紡績機の発明により、インド産の綿織物に匹敵する品質のものが生産可能となった。

イギリスで産業革命が始まった要因として、通常は、原料供給地および市場としての植民地の存在、ピューリタン革命や名誉革命による政治的ないし法的な環境、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、金融経済の発達および農業革命によってもたらされた労働力などがあげられる。

ただし実際には、これらの条件の多くはフランスでも大差がなかったという見方もある。決定的に違うものがあるとすれば、それは植民地の広がりだという。イギリス産業革命は1760年代に始まるとされることが多いが、七年戦争(北米ではフレンチ・インディアン戦争)が終結し、アメリカやインドにおけるイギリスの優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約だった。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが一挙に市場や原料供給地を得たというよりは、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場、および原料供給地を失ってしまったという見方が可能である。その意味で、大西洋経済こそ産業革命の生みの親だった。

いずれにせよ、イギリスはフランスに先んじて産業革命を開始し、一体化しつつあった地球上の他の全ての国ぐにに対し、一定の有利な位置を占めることとなった。イギリスは「世界の工場」と呼ばれ、やがて後世「大英帝国」と称される覇権国家となった。

イギリス産業革命の影響
産業革命によって、多くの人びとは農業すなわち食糧生産から離れ、第2次産業や第3次産業に従事するようになったため、社会的分業と都市化は急激に進展していった。工場の周囲は市街化し、工業都市には労働者があふれた。第二次囲い込みは合法的におこなわれた。また急激な経済社会の変革は、過酷な労働条件、貧富の差、劣悪な衛生問題、さらには犯罪の増加をももたらした。これらは、のちにサン・シモン、シャルル・フーリエ、カール・マルクスなど社会主義の諸思想を生み出す背景ともなっていった。

また、蒸気機関車や蒸気船などの交通革命によって、人、モノ、情報の流通はさらに活発となって世界の一体化はいっそう促進された。資本主義の担い手だった市民階級はアダム・スミスが『諸国民の富』でとなえた自由放任主義を支持し、規制撤廃と政治改革を進めた。自由主義が19世紀をみちびく思想となった。

これに対し、旧来の支配者だった地主貴族やイギリスに出遅れた他の諸国も対応にせまられた。1800年段階で、世界の工業生産に占める割合はイギリス35パーセント、フランス29パーセント、ドイツ諸国9パーセント、ロシア2パーセントで、その他はすべてを合わせてもわずか25パーセントにすぎなかった。

アイルランドやインドのように、かつて豊かな文化をもちながらも18世紀から19世紀半ばにかけて国家主権を確立できなかった地域はイギリスの植民地に転落し、そのうえ伝統的な産業でイギリスの工業と競合した部分は解体され、原料供給地と化した。ラテンアメリカやアフリカの諸地域の場合は、主権は維持できたものの経済的には完全にイギリスおよび西ヨーロッパの需要に従属するしかなかった。

このように、近代の始まりは、近代化にともなう諸問題の始まりをも意味していた。なお、イギリス以外の諸国の産業革命については、産業革命の広がりとイギリスの繁栄の項で詳述する。

アメリカの独立
フレンチ・インディアン戦争で勝利したイギリスは、1763年宣言でアパラチア山脈を越えてのアメリカ人の進出を規制した。これが、「イギリス人」として戦争に協力した植民地人の怒りを買うこととなった。また、イギリスは戦費支出の増大による財政難から、それまでの「有益なる怠慢」と呼ばれる緩やかな植民地支配から厳しい産業統制に転じ、砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)などを施行して13植民地に対する課税を強化した。これに対し、イギリス議会に代表を持たない植民地議会は「代表なくして課税なし」ととなえて抵抗し、一連の税法を廃止に追いこんだ。しかし、イギリス議会は1773年に東インド会社に茶取引を独占させる茶法を制定したため、植民地側の不満が頂点に達し、インディアンに扮した植民地人が、ボストンに入港したイギリス船内の茶を海に投棄するボストン茶会事件が起こった。イギリス側はボストン港閉鎖などでこれに対処したため、1774年、13植民地は大陸会議を開いた。

1775年、両者はついにレキシントン・コンコードの戦いで武力衝突し、植民地軍はジョージ・ワシントンを総司令官に選んでアメリカ独立戦争に突入した。当初、独立軍(パトリオット)は劣勢だったが、トマス・ペインが『コモン・センス』でアメリカ独立を訴えてベストセラーとなり、トマス・ジェファソンらの起草による『アメリカ独立宣言』が採択されると独立支持が多数となった。ベンジャミン・フランクリンはパリの社交界を中心に外交交渉を進めてヨーロッパ諸国の支持を集めることに成功し、サラトガの戦い以後は戦局も有利に進んで1781年のヨークタウンの戦いにも勝利すると、国際的孤立を怖れたイギリスは1783年にパリ条約を結んでアメリカ合衆国の独立を承認した。
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ


アメリカ独立の思想はヨーロッパの啓蒙思想から多く影響を受けており、独立宣言にはジョン・ロックの影響が強く見られる。共和制と民主主義を旗印に進めば、対立する王党派を追い落とすことができるという読みがあったと考えられる。独立の達成後、1788年のアメリカ合衆国憲法の発効、翌年の権利章典の可決(1791年発効)によって、アメリカは世界における民主主義の旗頭の道を歩み始め、また人権においても常にオピニオン・リーダーたらんとするようになった。

パリ条約でフランスは、ユトレヒト条約と1763年のパリ条約とで失った領土のうち、トバゴ島、セントルシア、セネガル川領域、ダンケルク、またインドの領地を回復した。フランスの介入は遠距離を対象とし、かつ海軍力を駆使したものだったため膨大な戦費が使われた。フランスの国家財政は悲惨な状態となり、一方でジャック・ネッケルの財政改革のため、景気も一時著しく後退していた。ネッケルの後任となった国家財政担当官カロンヌは、赤字解消のために貴族や聖職者の財産に税金をかけることを試みたが、解職され追放された。これは、やがて来たるフランス革命の伏線となる。この戦争は、フランスをヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランスは多額の軍事費にもかかわらず、合衆国の主要貿易相手国とはならなかった。また、独立戦争に参加したラ・ファイエットらが革命的気運を波及させた。

イギリスにとって植民地アメリカの喪失という経験は、イギリス帝国のあり方を変貌させた。1783年パリ条約後の第二次帝国は、1763年のパリ条約後の第一次帝国とはまったく異なる性格の空間となった。第一次帝国が「プロテスタントの帝国」と呼びうる性格を持っていたのに対し、第二次帝国はもはやそう呼ぶことは不可能となった。1807年、帝国内の奴隷貿易を廃止し、1833年には奴隷制度が完全に廃止された。第二次帝国は、「自由貿易の帝国」、そして、奴隷をはじめ、苦境に陥った現地の人びとを救う「慈悲深い博愛主義の帝国」として振る舞う[1]ようになり、その姿は1830年代に明瞭に示されることとなった。

アメリカの独立は、世界的にみれば、啓蒙思想を具現化した史上初の民主主義国家の建設と社会改革による市民的自由および権利の確立という大きな意義を有している。ロックの思想を根拠としたアメリカ独立宣言の発表は、諸民族の独立運動、とくにラテンアメリカ諸地域の独立運動を鼓舞し、また、この戦争に参加したコシューシコによってポーランド分割に対する抵抗運動が始まった。

2009年04月04日

寄り (相撲)

寄り(より)は、相撲における基本的な技のひとつ。

相手力士の廻しを取って相手を押し込むことを指す。廻しを取らない場合は押しという。廻しを取れば、これを強くひきつけることにより、相手の腰を浮かせることが本義で、この時のお互いの腰が「寄り」あうことが、語源とされる。

互いに交互に廻しを取り合うのを四つに組むと言い、両手が下手で相手の廻しを取るのをもろ差しという。

相手の構えの重心を崩し、土俵外へ運ぶか、土俵上で倒すことを狙った技である。決まり手としては寄り切り、寄り倒しに分類されることが多い。押し系の決まり手とともに本場所の決まり手の大半を占める。

がぶり寄り [編集]
がぶり寄りは相手の廻しを自分の方へ引き付けて腰を上下に揺り動かしながら寄り進むことである。寄り進むうちに相手の腰が浮き自身の腰が相手より低くなる形が理想型とされる。かつては双葉山のがぶりが絶品とされ、その後は荒勢や琴風が代名詞とした。2008年7月場所現在、がぶり寄りを得意としている現役力士は少ないが、関脇の琴奨菊や山本山などが得意としている。

カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

2009年03月20日

増発分には初めて485系電車が充当された

1972年(昭和47年)3月 以下のようにダイヤを変更する。
特急「はつかり」1往復、東京駅に乗り入れ。
特急「ゆうづる」、電車で1往復増発、4往復に。
昼行急行「十和田(上り・下り)1号」を格上げする形で、上野駅?青森駅間を常磐線経由で運転する特急「みちのく」1往復を、583系電車で設定。上野駅?青森駅間常磐線経由昼行特急が約4年ぶりに復活する。
1972年(昭和47年)10月 特急「ゆうづる」、客車にて1往復増発、5往復に。
1973年(昭和48年)3月 特急「はつかり」、臨時1往復増発され4往復に。増発分には初めて485系電車が充当された。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

1973年(昭和48年)4月 東北・上越新幹線建設工事に伴い、東京駅?上野駅間の回送線使用中止。これにより、特急「はつかり」の東京駅乗り入れを中止。
1973年(昭和48年)10月 特急「はつかり」、1往復増発、臨時1往復定期化、5往復に。
1975年(昭和50年)3月 特急「ゆうづる」、客車で2往復増発され、電車3往復・客車4往復で計7往復の大所帯に。なお、寝台のセット・解体用の乗務員である車掌補の不足から、この後1年半、電車「ゆうづる」1往復が全車座席車として運転される、という珍現象が生じた。
1976年(昭和51年)10月 客車使用の特急「ゆうづる」4往復すべて、20系客車から新形の「24系24形客車」に置き換え。なお、前年3月以来座席車で運転されてきた電車「ゆうづる」1往復は、全車寝台に戻された。
1978年(昭和53年)10月 「ゴー・サン・トオ」と呼ばれる大規模ダイヤ改正を実施。
このとき、一部の列車では首都圏での規格ダイヤ修正と停車駅増加により所要時間が延伸された。これの事例としては、「はつかり1号」が30分程度、所要時間が延伸する。
特急「はつかり」は本数では1往復増発され6往復となり、「はつかり」エル特急に指定。
新たに「はつかり」・「みちのく」に普通車自由席を設置。
1980年(昭和55年)10月 特急「ゆうづる」電車・客車各1往復を季節列車に格下げ。また、定期で残った客車の3往復中2往復は「24系25形客車」に置き換えられ、東北特急として初の2段B寝台投入となった。

2009年03月05日

封神演義の物語

封神演義の物語は、中国民衆の間に深く浸透している世界観(道教や神仙思想、仏教、などが深く絡み合った中国独特の宇宙観)を多少とも知っていることが、それを理解する早道となるが、編者に道教・神仙思想・仏教の知識が乏しかったと推定されているため、一般的な道教からみると多分に疑問な記述が多い。編者は特に歴史知識に疎かったらしく、唐の武将李靖を殷代に登場させるという誤りを犯しているという指摘がある。

封神演義の世界において、世界は仙界と人界に分かれ、仙界はさらに、人間からなった仙人・道士達からなる崑崙山の仙道「闡教(せんきょう)」と、それ以外の動物・植物・森羅万象に由来する仙道「截教(せっきょう)」とに二分されていた。

人界では時は商(殷)の紂王の治世。名君と呼ばれた紂王はその心に兆した慢心から、女媧廟の祭祀において女媧への無礼にあたるふるまいを行った。すなわち、女媧は人間界のどの人間より美しい、この女媧が私のものであったら良いという意の詩を読んだわけである。この、紂王の「人」と「神」を混同した行動に女媧は怒り、千年生きた狐狸の精に紂王を陥れるよう命じた。狐狸精は、紂王の後宮に入ることになっていた美女、冀州侯の娘・妲己の魂魄を滅ぼしてその身体を手に入れ、紂王を籠絡し始めた。これ以降紂王は、妲己に操られるまま次第に暴政を行うようになっていった。

一方仙界では、闡教の教主・元始天尊門下の十二人、つまり崑崙の十二大仙が、千五百年に一度の逃れられぬ劫として、人を殺さねばならないという罰を受けることになった。また昊天上帝(天帝)が彼ら十二人を臣下に命じたことから、商周革命に関わる闡教徒、截教徒、人道の中から三百六十五位の『神』を『封(ほう)』じる『封神』の儀式を行うことになった。

天命により、この封神の執行者として選ばれたのが、崑崙の道士の一人であった姜子牙……後に周国の丞相となる太公望である。

斯くして商代末期の商周革命の動乱を舞台に、四不相(四不像)に乗った姜子牙(太公望)がまきおこす商周両国の間の戦乱、ひいては闡教と截教の対立が描かれながら、数多くの仙人、道士の魂魄が封神榜の掲げられた「封神台」へと飛んでいくこととなる。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ


姜子牙(きょう しが) / 姜尚(きょう しょう)(通称は太公望(たいこう ぼう))
本作品の主人公。元始天尊の弟子。師の命令で下山し、周を助けて商を討ち、三百六十五人の神を封じる。
姫昌(き しょう) / 文王(ぶんおう)
四大諸侯の一人で、西伯侯。占いの名人で、後に周の文王となり、姜子牙を迎え入れる。
散宜生(さん ぎせい)
周の文官。
武王(ぶおう) / 姫発(き はつ)
姫昌の次子。父の後を継いで周の武王を名乗り、商を討つ。
姫伯邑考(き はくゆうこう)
姫昌の長子。幽閉された父を救うために朝歌を訪れるが、妲己の策略により刑死する。
周公旦(しゅうこう たん) / 姫旦(き たん)
姫昌の第四子。
雷震子(らいしんし)
姫昌の養子で、第百子にあたる。雲中子の弟子。杏を食べたことにより鷲のような大翼を得て、周を援けた。
武吉(ぶ きつ / ぶ きち〔安能版〕)
木こり。殺人の罪で処刑されようとしたところを姜子牙に救われ、彼の弟子になる。
竜鬚虎(りゅうしゅこ)
妖怪。申公豹に騙されて姜子牙の肉を食おうとしたが、杏黄旗によって収められ、姜子牙の弟子となる。大石をイナゴの大群のように飛ばすことができる。

商(殷)
紂王(ちゅう おう)
商の天子。女媧宮を詣でた際、女媧の像を見て淫らな思いを起こし詩を書き残したため、女媧の怒りを買ってしまった。名君であったが、妲己を娶ってから酒色に溺れ暴政を行うようになる。
蘇妲己(そ だっき) / 千年狐狸精(せんねんこりせい)
紂王の妃。その正体は冀州侯蘇護の娘の姿に化けた千年狐狸精で、女媧の命を受けて商王朝の命数を縮めるために残虐な行為を繰り返す。
封神演義の原文には『蘇妲己』と表記されているが、春秋以前の時代の婦女子は姓より先に名前が来るのが通常であり、『史記』殷本紀の注にも「妲は字にして姓は己であり」と記されている。そのため、姓を蘇とし名を妲己とする封神演義の表記は本来は誤りである。
聞仲(ぶん ちゅう / もん ちゅう〔安能版〕)
商の太師。商軍を率いて西岐を攻める。師である金霊聖母から『絶』の字を避けるように言われていたが、敗走中に絶竜嶺にたどり着いてしまい、そこで雲中子と燃灯道人と戦って命を落とした。額に第三の瞳を持つ。
商容(しょう よう)
商の宰相。官職を辞して一時は朝歌を離れるが、後に逃亡中の殷郊が自宅を訪れたため、再び都に戻って紂王を諌めた。紂王に処刑を命じられたが、自ら石柱に頭をぶつけて自害する。
比干(ひ かん)
商の亜相。紂王の叔父。妲己の持病の治療のために紂王から『玲瓏心』を求められ、心臓を抜き取られて死亡した。
費仲(ひ ちゅう)
中諫大夫。奸臣。蘇護が賄賂を送らなかったため、彼の娘の妲己が絶世の美女であることを紂王に教え、娶るように勧めた。また妲己の密命を受け、姜皇后に紂王暗殺の濡れ衣を着せる計略を企てた。後に、文官であるにも関わらず魯雄率いる西伐軍に加わるよう聞仲から命じられ、西岐の地で命を落とした。
尤渾(ゆう こん)
奸臣。費仲同様、魯雄率いる西伐軍に加わるよう命じられ、西岐の地で命を落とした。
箕子(き し)
商の文官。紂王の叔父。王を諫めるも、投獄されて断髪される。
微子啓(びし けい)
商の文官。紂王の異母兄。王を諫めるも、挫折し、弟と共に商の祖廟を守って離反。
微子衍(びし えん)
商の文官。紂王の異母兄。王を諫めるも、挫折し、兄と共に商の祖廟を守って離反。
杜元銑(と げんせん)
商の司天台。雲中子の剣の献上の件で、宮殿を取り巻く妖気の原因が妲己であると気づく。王を諌めるも、処刑された。
梅伯(ばい はく)
商の上大夫。杜元銑の処刑が決定した際に王を諫めるも、炮烙にて処刑された。
姜妃(きょう ひ)
紂王の皇后。妲己の策略により紂王暗殺の濡れ衣を着せられ、両指を焼かれ片目を抜かれるといった拷問を受けた後、死を遂げる。
殷郊(いん こう)
商の太子で紂王と姜妃の間にできた長男。処刑される直前に風にさらわれ、広成子の弟子になる。後に三面六臂の姿となり、周を援けるために下山するが、申公豹に唆されて商軍に加わった。下山前に立てた「もし過てば、鋤で頭を落とされても構わない」という誓い通りの方法で処刑される。
殷洪(いん こう)
紂王と姜妃の間にできた次男。処刑される直前に風にさらわれ、赤精子の弟子になる。周を援けるために下山するが、申公豹に唆されて商軍に加わった。下山前に立てた「もし過てば、四肢を灰にされても構わない」という誓い通りの方法で処刑される。
武庚(ぶ こう)
商の王子。紂王の子。朝歌が落城した際に周兵によって捕らえられる。諸侯と姜子牙は武庚を処刑するよう武王に勧めたが、武王は成湯の血が絶えるのを避けるため彼を殺さず一領地を与えた。
安能版では妲己の侍女・鯀捐の子ということになっていたが、これは原作には存在しない設定である。
賈氏(かし / こし)
黄飛虎の妻。妲己の策略にあい、自らの身の潔白と黄家を守るために自害した。
黄氏(こう し) / 黄貴妃(こうきひ)
紂王の妃。黄飛虎の妹。義姉に当たる賈氏とは仲が良かった。
賈氏の死を嘆いて紂王に暴挙を振るい、墜落死する(作品によって死に方がまちまち)。
崇侯虎(すう こうこ)
四大諸侯の一人で北伯侯。四大諸侯の中では唯一、紂王に取り入っている悪役である。史実では殷に味方して周に歯向かった諸侯。
安能版では誤って、崇侯虎ではなく崇候虎と表記されている。
崇応彪(すう おうひょう)
崇侯虎の嗣子。
魔家四将(まかししょう)
佳夢関を守る四兄弟。聞仲の命により守備を胡昇と交代し、西岐を攻めた。
魔礼青(ま れいせい)
長兄。青雲剣と呼ばれる剣を持ち、これを振って、何万もの刃と矛を巻き起こす黒風を発生させる。
魔礼紅(ま れいこう)
次兄。混元傘と呼ばれる傘を持ち、これを開いて、天地を揺るがし炎を発生させる。
魔礼紅は第九十九回で広目天王に封じられるが、そのときの記述では琵琶を用いて調を司るとあり、最初の設定と矛盾が生じている。
魔礼海(ま れいかい)
三兄。地・水・火・風を司る四弦が張られた琵琶を持ち、これをかき鳴らして、風火を発生させる。
魔礼海は第九十九回で多文天王に封じられるが、そのときの記述では傘を用いて雨を司るとあり、最初の設定と矛盾が生じている。また、多『聞』天王ではなく多『文』天王と記述されているのは、多聞天が毘沙門天(托塔李天王である李靖)と重なる神格であり、作品内で同一人物が登場する不自然さを避けるための作者の作為的書き換えだとする説がある。
魔礼寿(ま れいじゅ)
末弟。花狐貂と呼ばれる白い鼠のような生物を持ち、これを放つと、白象ほどの大きさになって敵に食らいつく。
孔宣(こう せん)
商の西伐軍の将。正体は孔雀。五色の神光を放って洪錦、哪?、雷震子、黄飛虎ら五岳、李靖、金?、木?など周将を次々と捕らえて苦戦させた。陸圧道人や燃灯道人が出陣しても何者であるかわからなかったが、準提道人によって正体が暴かれ、西方に連れて行かれた。
高継能(こう けいのう)
孔宣配下の将。蜂の大群を操って戦う。
胡昇(こ しょう)
佳夢関の総兵。弟の胡雷を失って一度は周軍に投降の文書を送るが、火霊聖母が味方についたことで帰順を撤回した。火霊聖母が戦死した後に再び投降を申し出るが、姜子牙に受け入れられず、処刑された。
胡雷(こ らい)
胡昇の弟。火霊聖母の弟子。身代わりの術を用いるが、竜吉公主に破られて処刑された。
丘引(きゅう いん)
青竜関の総兵。頭上から紅珠を出現させて敵を気絶させる。黄天祥に傷を負わせられたことを深く恨み、彼を捕らえると風化の刑に処した。青竜関の戦いで敗走するが、後に万仙陣で陸圧道人に倒される。
陳奇(ちん き)
丘引配下の将。口から黄気を吐いて敵を気絶させるという、鄭倫と似た術を用いる。
韓栄(かん えい)
汜水関の総兵。
韓昇・韓変(かん しょう・かん へん)
韓栄の二人の息子。万刃車と呼ばれる紙の風車を使って風と炎を起こし、周軍を阻んだ。

2009年02月14日

絶望 -青い果実の散花-

スタジオメビウスの出世作『悪夢 -青い果実の散花-』の続編に当たるがゲームシステムは大きく変更され、また主人公一味以外にストーリー上のつながりはない。

最初から全ヒロインが囚われの状態でありアジトとしている廃校(さらにいえば自室、広間、地下室)のみを舞台とする前作とは異なり、亡霊や様々な人間(捕えたヒロインを含む)の姿でマップ上を移動してヒロインを捕獲=アジト(旧校舎)に誘い込むことがメインとなる。

もともとは、学校の怪談をモチーフに旧校舎を舞台にした「学校の亡霊」というタイトルの企画だった。その名残はイベント「肝試し編」として残っている[1]。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

作中で前作からどれほど後の時期が舞台かは明示されていないが、発表時の雑誌広告には主人公の死刑は確定後数ヶ月で執行されたとの記述があるのでさほど時間はたっていないと見られる。また、2004年に発売されたファンディスク『めびにゃ』内の「暗黒SNOW」(『絶望』より後の時系列)OPには「数年前、この国には勝沼財閥が存在した」とのテロップが流れるのでやはり『悪夢』の数年後と見るのが妥当である。ただし後述する小説版では主人公の死後(具体的には財閥の消滅後)に聖セリーヌ学園が開校したという設定になっているので、その間校舎を建て替えていることも考えると前作から少なくとも10年以上は経過していることになる。

誘拐に成功し少女達の貞操を奪い取りあげくは彼女達を殺害するなど悪行三昧を繰り返した紳一達だったが、結局は当局の手によって逮捕されてしまう。

その後裁判で死刑判決を受け、彼らは処刑されてしまう。しかし、彼らの強い肉欲の念は地獄からの引力に勝っていた。亡霊として現世に復活をはたす紳一達。

紳一達は事故で植物人間になった浮浪者「茂」の肉体を利用し、再び少女狩りを始める・・・。

勝沼 紳一(かつぬま しんいち)
主人公。勝沼財閥の代表。先の少女集団誘拐殺人の首謀者で、絞首刑を受けた亡霊。
本編では表示されないが、冷笑をたたえた全裸の美青年の姿で現れる。
古手川が用意した茂の肉体を使い、ゲームを始める。
古手川 厳三郎(こてがわ ごんさぶろう)
紳一に仕えていた執事。紳一とともに絞首刑となり、先に蘇ってゲームの下準備をしていた。
頭部全体がねじれ、追いすがる亡霊の姿で現れる。紳一が誘い込んだ少女たちの前に現れ、その姿を見せつけ気絶させる役割も担当(ほぼ全ての少女に有効)。
少女を捕らえるため、および個別エンドに到達するためのヒントは彼から聞くことができる。
主への忠誠心は厚く、また上記のとおり作中での貢献度は他の2人とは比べ物にならないがこのゲームは紳一の意志よりもむしろ古手川の思惑で成り立っている。紳一の復活以前にすでに茂の体で少女を陵辱し、相手を自我崩壊させていることがほのめかされている。
椎名 直人(しいな なおと)
紳一の側近。先の事件で紳一をかばい、警官隊の銃撃によって射殺された。
顔面を変形させた古手川や木戸と違い、全身に銃創を受けた血まみれの姿で現れる。
忠誠心は厚いが、「少女が絶滅しても、紳一様さえいれば満足できる人」と古参ファンが絶賛した前作ほどの忠誠心はない。
木戸 大門(きど だいもん)
紳一の側近。逮捕後に脱走したものの失敗して射殺された。
ヤクザの風体だった前作とはまったく違い、頭部を横に引き伸ばした怪しげな紳士の風体で現れる。
力技の強引な陵辱を繰り返す前作とは違い、力技に加えて変態的な奉仕をさせたり相手の体を愛でたり性格が変わっている。
古手川と直人の尋常ではない忠誠心に比べると、人並みの忠誠心しかない。
なお、ノベルス版では生前の職業が紳一の会社の経営者から専属ボディガードに変更されている。
草陰 茂(くさかげ しげる)
「聖セリーヌ学園」旧校舎に住み着いていた浮浪者。
事故で植物状態になっていたところを古手川によって紳一の仮の体として確保される。彼自身もゆがんだ性欲の持ち主で、過去に少女を旧校舎に連れ込んで乱暴した前科があるらしい。

園田 みちる(そのだ -)(聖セリーヌ学園)
紳一の死後に発展した園田グループの会長の長女(総資産数十兆の同グループについて古手川は勝沼財閥より小さいと紳一に説明したが勝沼財閥の具体的な規模についての描写がないためリップサービスの可能性もあり、真偽は不明)。実家の権勢を鼻に掛けた高飛車な性格だが、宿題を他人にやらせようとするなどあまり頭は良くない。
園田 瑠美(そのだ るみ)(カレン女学院)
園田グループ会長の次女。みちるとは正反対のおしとやかな性格だが、姉のことを慕っている。聖セリーヌとは登校スケジュールが異なるようで、ほぼいつも自宅にいる。
斉藤 真弓(さいとう まゆみ)(園田家)
園田家で働くメイドで、園田姉妹の身の回りの世話を担当している。住み込みではなく実家から通勤している。
七瀬 星花(ななせ せいか)(聖セリーヌ学園/スズハラ・プロダクション)
両親、姉とも芸能人の人気アイドル。仕事の傍らに学校にも通っている。実は豊胸手術をしている[2]。
篠田 香苗(しのだ かなえ)(スズハラ・プロダクション)
元アイドルだったが引退し、現在は星花のマネージャー。事務所の方針に不満を持っている。
初期設定では単に「星花のマネージャー」であり既婚者(バツイチ)とあるので、当初は攻略対象ではなかったと見られる。
前島 えみる(まえじま -)(カシワ・プロダクション)
実力派アイドル。星花と美衣亜が親の七光りでデビューしたと思っていて強くライバル視しており、仕事に関して2人を批判することが多い。とはいえ仕事を離れても2人と行動を共にすることが多い。
北野 美衣亜(きたの みいあ)(パオパオ劇団)
映画監督の娘で、子供向け番組で人気のアイドル。天然ボケ。特に星花と仲がいい。えみると美衣亜は星花と同年代だが、学校に通う描写はない。
井内 翔子(いうち しょうこ)(聖セリーヌ学園)
不動産業の娘。一人称が「オレ」の乱暴な性格で、躾の目的で女子寮に入れられた(同校は全寮制ではないが、通学できる範囲に住んでいる生徒も多数入寮している)。いつも様々な企画を立てて友人達を強引に巻き込んでいる。肝試しを思いついたことが悲劇を招く。
松山 砂織(まつやま さおり)(聖セリーヌ学園)
船長とピアニストの娘。両親とも仕事で国内にほとんどいないため、女子寮に入っている。性格も良く、学校中で人気の美少女。男子で人気No.1の柴田雅也とほぼ両想い。
肝試し編の企画段階ではヒロイン扱いだった[1]。
川島 夏美(かわしま なつみ)(聖セリーヌ学園)
政治家の娘で、水泳選手としてかなりの実力。わがままなみちるとよく喧嘩している。攻略対象ではただ1人のボクっ娘。
九条 静香(くじょう しずか)(聖セリーヌ学園)
両親が他界したため、姉妹3人とも陶芸家の祖父に引き取られている。人間国宝である祖父宅は工房も備える程の広さがある。無口で傍目には何を考えているか分からないところがある。風呂と動物が好き。わずかだが予知、遠隔透視の力がある。
九条 薫(くじょう かおる)(九条製薬)
静香の姉。叔父の製薬会社で働いているが、厚遇されてはいない。
九条 理沙(くじょう りさ)(西調布学園)
静香の妹。ハムスターを可愛がっている。静香よりも薫に懐いている。
敦井 湧(つるい ゆう)(聖セリーヌ学園)
両親とも陸上選手で、本人も陸上部員として活躍している。
萩田 志穂(はぎた しほ)(聖セリーヌ学園)
両親とも大病院の勤務医で、自宅が改築中(独立開業の準備)のため女子寮に入っている。クラスで学級委員をしている優等生。初期ヒロインのなかではただ一人の眼鏡っ娘。外見ではデコが目立つ。兼田巌と幼馴染み。
白雪 雪菜(しらゆき ゆきな)(聖セリーヌ学園)
暴力団組長の娘だが、両親(主に母親)は稼業のことを本人に隠しているため家業は建設業だと思っている。極度の男性恐怖症だが、父親や組員に対しては普通に接することができる。
鈴木 秋子(すずき あきこ)(調布大学病院)
志穂の両親の勤務先で、雪菜の父親も入院している大病院の看護婦。潔癖症で、監禁されてもなお主人公を病院へ連れて行きたがる。
田中 ひかり(たなか -)(聖セリーヌ学園)
借金を残して父が蒸発したが、バイトで学費を稼いでいる。境遇を感じさせないほど快活。砂織と幼馴染み[2]。
田中 亜紀(たなか あき)(西調布学園)
ひかりの妹で、病弱のためほとんど家にいる。次兄の巧己によくいじめられている。
加藤 順子(かとう じゅんこ)(西調布学園)
ひかりのバイト先の新聞配達店の娘。ゲーム好き。ひかりと仲がよく、オーバーニーソックスがお揃い。
水無月 かな(みなづき -)(聖セリーヌ学園)
水無月家の三女。小柄で子供っぽい。お菓子好きで、リュックにたくさん入れて持ち歩いている。偏食気味であることは本人も自覚している。
水無月 めぐみ(みなづき -)(西川会計事務所)
水無月家の長女で、会計会社で働くOL。聖セリーヌ学園のOGでもある。あまり家事をしなくなった母に代わり、家事も担当している。実は腐女子[2]。彼女らの父は入り婿であるが、母も亡き祖母の連れ子であるため祖父とは誰も血縁がない。
水無月 美里(みなづき みさと)(ルージュ女学院)
水無月家の次女で、一人だけ聖セリーヌ学園以外の学校へ通っている(ルージュ女学院は制服が有り、聖セリーヌと同年代の学校と思われる[2])。買い物好き。レズっ気のある同性からもてる。
月宮 音那(つきみや おとな)(聖セリーヌ学園)
政治家の娘。美衣亜の大ファンで、寮の部屋にも多数の彼女のグッズを飾っている。気が小さく臆病。熟睡型。雪菜と仲が良い。
初期版ではパッケージに描かれている。
岬 冴子(みさき さえこ)(聖セリーヌ学園)
聖セリーヌ学園の教師。まじめな性格だが抜けたところもあり、生徒から人気がある。恋人のまさおとは、いまだプラトニックな関係でいる。
大胆に肩を出した服装だが、下着には肩紐がある。
三国 智子(みくに ともこ)(ACBテレビ)
芸能人と知り合うのが目的だった、突撃レポーター。ジャーナリストとしての使命感は強く、監禁されてもなお主人公にインタビューを敢行する。取材ではカメラマンの剛とコンビを組んでいる。
兼田 絵里(かねだ えり)(カレン女学院)
有名シェフの娘で、よく兄の巌に届け物に来る。かなりのブラコン。陸上の部活動をしており、兄の友人でもある湧に憧れている[2]。
五十嵐 美穂(いがらし みほ)(南塚原学園)
聖セリーヌ学園長の娘。甘やかされてわがままだと解説されているが自発的に家の掃除をしているなど、そうは見えない。

マルシェ・カトリエーヌ(聖セリーヌ学園)
留学生で、元の学校の制服を着用している。フランス出身のアメリカ育ち。ペンフレンドに吹き込まれた、日本についての誤った知識を信じ込んでいる。片言な口調もあって変人に見えるが、かなり品行方正な家庭で育ったらしい。
赤石 真生(あかいし まお)(赤石霊媒院)
眼鏡っ娘で巫女服の霊媒師(除霊師)。術は我流で、本当の巫女ではない。神社に間借りして除霊業を営んでいる。
なお、取扱説明書でのプロフィールが本編中の設定と大きく食い違っている。
カリン・エレメント(聖セリーヌ学園)
転入生で、攻略対象のなかでも一番の美少女。丁寧な口調で微笑みを絶やさないが、物言いは一方的である。生真面目な性格だが他人の悪意に鈍感でもある。霊体を見ることが出来る。
『絶望+』、『絶望 Standard Edition』ではパッケージに描かれている[3]。
ワーグ・スリープ(南塚原学園)
プチールと名付けた不気味なぬいぐるみを抱き、夏なのにヴィクトリア朝のようなドレスに身を包んでいる。霊体を見ることが出来る。攻略対象のなかでは一番小柄。カリンと並んでプレイヤーに人気がある。
『絶望2000』ではパッケージに描かれている。

兼田 巌(かねだ いわお)(聖セリーヌ学園)
肝試し編の主人公。運動部に所属していて、怪力の持ち主。
シスコンで妹の絵里に甘い。
柴田 雅也(しばた まさや)(聖セリーヌ学園)
優等生ではないがお祭り好きな性格で気が利き、頼りがいがある男子校内人気No.1。
砂織とほぼ両想い。
久賀 聖仁(くが きよひと)(聖セリーヌ学園)
ナンパな性格で、湧と仲が悪い。
長浜 直之(ながはま なおゆき)(聖セリーヌ学園)
男のくせに怖がりで、よく翔子に遊ばれる。すこし霊感がある

2009年01月27日

モジュール式脱出装置

コクピットをそのまま飛ばすモジュール式脱出装置は射出時に乗員が外気にさらされないため超音速時でも安全に脱出することができ、着水した場合も水と直接触れないため低体温症から乗員を守ることができた。またサバイバルキットや食料を通常より多く搭載することもできたりと利点は多かった。

しかし座席のみを飛ばす場合に比べ全体の質量が大きいため落下速度を通常の射出座席と同レベルにするには通常より大型のパラシュートを使うなどする必要があった。またパイロットの装備が改められる等の規程変更の度に改修を要したり、定期点検の度に分解整備が義務付けられ労力とコストを要したりなどデメリットも多かった。

一応、軽くて強いケブラー素材のパラシュートとエアバッグを装備し着地の衝撃をなるべく和らげるようにされていたが、それでも通常より着地の衝撃は大きく乗員が背骨の圧迫骨折を起こす事態などが発生している。

地形追従レーダー
地形追従レーダー(TFR:Terrain Following Radar)は低空を地形に沿って飛行する際使用されるレーダーである。このレーダーは、通常の火器管制用レーダーとは別に装備されており、自動操縦装置との組み合わせにより、F-111は自動で地形に沿って飛行することができる。飛行高度や地形追従精度は必要に応じて数種類から選択することが可能である。

トーチング(ダンプ&バーン)
トーチングを行うF-111CF-111の良く知られた曲技に、燃料を空中投棄しながらアフターバーナーを使って燃料を引火させるトーチング(ダンプ&バーンともいわれる)がある。この曲技は、F-111の展示飛行では頻繁に行われ、シドニーオリンピック閉会式の際にも実演された。

ただ、この技はF-111の問題点を現すものでもある。曲芸などで意図的に燃料を放出し引火させる分には特別な改造なしに行える便利な技といえるが、非常時燃料投棄をしている最中に引火すると危険であるため、燃料投棄時のエンジン出力には制限を課す必要があった。

愛称
愛称は「アードバーク(Aardvark:ツチブタの意)」だが、アメリカ空軍では退役直前まで公式な愛称を持たなかった。そのことから「フライングピッグ(Frying-Pig)」計画の推進者であるマクナマラ国防長官のフォード時代の「マーケッティング史上に残る大失敗」であるフォード・エドセルにちなんだ「フライング・エドセル(Flying Edsel)」、翼を前後させる可変翼の動作から「スウィンガー(Swinger)」、同様に可変翼を折りたたみナイフに見立てた「スウィッチブレイド(SwitchBlade)」、また配備当初に可変翼キャリースルーボックスの強度不足に起因する事故が連続して起きたことから「ウイドウメーカーWidow-Maker)」など、多彩な愛称を関係者から与えられていた。

ベトナム戦争
1968年3月、アメリカ空軍は議会などのF-111に対する批判を一掃するためF-111A 6機をベトナム戦争へ参加させることを決定する。しかしF-111Aは半月で2機の損失を出した。損失分を補充するため2機を新たに派遣するも、4月にもさらに1機損失が発生したことにより、作戦は一旦中断され、事故の原因究明が行われた。

後に改修が行われたF-111A 48機が1972年の北爆再開時に再びベトナムに派遣されたが、その際は4000回を越える出撃を行うも、損失は7機[6]と非常に高い運用成績を示した。

エルドラド・キャニオン作戦(リビア爆撃)
イギリス空軍レイクンヒース基地にてGBU-10爆弾を搭載する第48戦術戦闘航空団のF-111F
1986年4月14日撮影1986年4月、アメリカはリビアが支援したとされるテロに対する報復攻撃としてトリポリとベンガジの軍事施設に対する攻撃を計画する。この攻撃の目標にはムアンマル・アル=カッザーフィー大佐が宿舎として使用していたアル・アジジャ兵舎が含まれており、実質的にカダフィ大佐の殺害計画でもあった。アル・アジジャ兵舎の近くにはフランス大使館があったため精密な爆撃が要求されたが、当時のアメリカ海軍艦載機には精密誘導兵器の運用能力がなかったため、F-111に白羽の矢が立った。
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当初計画ではフランス領空を通過する予定であったが、フランスに拒否されたため、イギリスから発進してイベリア半島を大きく迂回するジブラルタル海峡まわりのルートに変更、往復10,000km近くの長距離飛行となった。攻撃はイギリスに駐留していた第48戦術戦闘航空団のF-111F 18機(他に予備が6機)と空母艦載機で行い、第42電子戦飛行隊のEF-111A 4機(他に空中待機が7機)がレーダーを妨害し支援することとされた。

4月14日、イギリスのレイクンヒース基地からF-111Fが、アッパーヘイフォード基地からEF-111Aが飛び立ち、途中空中給油を受けながらリビアに向かった。攻撃隊はリビア周辺で艦載機と合流し、EF-111Aの支援を受けながら攻撃を行った。結果、F-111F 1機とその乗員2名を対空火器により失ったが作戦は成功し、アル・アジジャ兵舎を含めた軍事施設を破壊することに成功した。しかし、最重要目標であったカダフィ大佐は宿舎にいなかったため、殺害には失敗した[7]。

フランス大使館への被害を避ける為に長駆F-111を飛行させて投入した作戦であったが、結局フランス大使館には至近弾による被害が生じ、作戦後にアメリカ政府は正式な抗議を受けることになった。

湾岸戦争
1990年「砂漠の盾作戦」のため、サウジアラビアの基地で出撃準備をするEF-111A1991年の湾岸戦争にはF-111E/FとEF-111Aが参加した。この戦争はレーダーに見えないステルス攻撃機としてF-117が特に有名となったが、実際のところレーザー誘導爆弾の6割はF-111から投下されていた(F-117は3割弱)。

開戦当初F-111Fはサウジアラビア南西部に位置するタイフ基地から展開し、往復1回ずつの空中給油を受け、目標周辺ではレーダーに捕捉されないように高度を下げ低空を飛行しながら攻撃を行っていた。しかし対空砲火が予想以上に強力で、低空を飛ぶ方がむしろ危険と判断され、高空を飛行したまま爆弾を投下するように計画が変更された。その結果、燃料消費量が減少し、帰投時の空中給油は必要なくなった。この行動パターンの変更は空中給油機の運用サイドに伝わっておらず、空中給油を行うものとして燃料を積載して離陸したものの、会合点にF-111Fが現れず、燃料を空中投棄して帰還するという事態が発生している。

このようにレーザー誘導爆弾を使ったミッションを多数こなしていたのと、数少ない地形追従飛行が出来る機体であったため[8]、「破壊したい物がある?F-111に任せろ。」や「F-16やF/A-18を飛ばすな。砂埃が舞ってF-111の邪魔になる。」などと呼ばれるぐらい信頼されていた。

2月27日には通常兵器としては最高の地表貫通性能を誇るGBU-28、通称「ディープスロート」を装備したF-111F 2機がイラク軍のアル・タジ基地地下司令部を破壊した。この時使用されたGBU-28は、約20日間という短い期間で開発されたため、アメリカ陸軍で使用していた8インチ自走榴弾砲の砲身に炸薬を詰めるという異例な製造方法がとられた。

また変わった戦果としては、イラク軍のミラージュF1戦闘機に発見されたEF-111Aが、地形追尾モードで超低空飛行に入り回避を試みたところ、それを追ったミラージュが地面に激突するといったものもあった。これはマニューバーキルといわれる撃墜方法でEF-111Aによる「撃墜」として公式にカウントされている。

湾岸戦争での活躍により、F-111の引退を先延ばしにするべきとの意見も出たが、前述の維持費などの問題から実際に行われることはなかった。

デリバリット・フォース作戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ空爆)

イタリアのアビアノ空軍基地に展開した第429電子戦飛行隊所属のEF-111A。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内のセルビア人勢力は、包囲下におかれた同国の首都サラエヴォを狙って迫撃砲弾を発射した。砲弾はサラエヴォ市内の市場に落下し多数の死者が出た(第二次マルカレ虐殺)。この地域は国際連合によって決められたボスニアの安全地域(非戦闘地域)に含まれており、この事件には世界各国から広く抗議の声が上がった。この声に応えて、国際連合保護軍の司令官やNATO南部司令官は、アメリカ海軍の原子力空母セオドア・ルーズベルトをアドリア海に派遣し、連合国軍機も攻撃態勢を整えた。

NATO軍は、セルビアのボスニアへの攻撃活動を阻止すべく、セルビア軍に空爆加える「デリバリット・フォース作戦」を練った。この空爆を支援するため、EF-111Aが他の軍用機と共にイタリアを中心とする基地に派遣され、防空制圧作戦を行った。なお、この作戦は、実際には「デッド・アイ作戦」と呼ばれる別作戦として扱われる事もある。1995年8月30日に作戦が開始され、9月14日(9月2日から4日は一時停止)に停戦した。その後10月にセルビア軍が停戦条件を破ったため、NATO軍は小規模な攻撃を続けた。

運用
F-111の基本性能は高く、戦術航空軍団(TAC)だけにはとどまらず、戦略航空軍団(SAC)では戦略爆撃機として採用された。電子戦機型のEF-111Aも開発されるなど、いくつかの派生型も作られた。機体の塗装について、初期は灰色を基調としたアメリカ空軍色だったが、ベトナム戦争以降は迷彩塗装(いわゆる「ベトナム迷彩」)が基本となり、後年にはグレー単色となる機体が多くあった。また、一部のF-111AがNASAに引き渡され実験機として使用されたことがあった。

アメリカ空軍では一時2010年ごろまでF-111を使用する予定であった。しかしながら、維持費がかさむため、通常攻撃型はF-15Eなどにその任務を譲り、1996年に第27戦術戦闘航空団のF-111FがF-16C/Dと交代したことにより退役完了した。EF-111Aは1998年に後継機を待たずしてアメリカ空軍から退役した。 2008年現在、F-111を運用しているのはオーストラリア空軍のみである。